もう言い尽くされていることかもしれませんが。

「山本功児」の名を聞いて、我々の世代に蘇るのは、きっとあの日のことだろうと思います。

1977年、長嶋ジャイアンツ3年目の4月19日。

対阪神戦、1点ビハインドで迎えた読売の9回表の攻撃。2アウトランナー1塁。

相手ピッチャーは、エース古沢。敗色は濃厚。

ここで何を思ったか、長嶋監督は1塁ピンチランナーに新人の松本匡史を起用。

のちに俊足巧打のスイッチヒッターとして1番打者に定着する松本ではあるが、ここはまだ新人。阪神サイドに、多少の油断はあったかもしれない。

憤死すればゲームセットという絶体絶命の場面で、古沢の初球に松本がまさかの盗塁を敢行。場内も中継のアナウンサーも騒然とする中、2塁は間一髪セーフ。松本が局面をこじ開けて、一打同点の可能性を手繰り寄せた。

この一世一代の勝負どころに、長嶋監督が代打に送ったのが、入団2年目の山本功児である。

エース古沢と控え選手ではいかにも分が悪い。山本の心中はいかほどだったか。しかし、古沢の投じた球を、少し遅れ気味に山本のバットが捉えた打球は、ふらふらっと上がったのか鋭いライナーだったのかは知らない、ショート後方にとにかく落ちた。

2アウトだから、もちろん松本は一目散に走り、悠々ホームイン。一気に同点となる。

試合は延長となり、最後は読売の逆転勝利。

当時は、テレビ中継の延長はありませんでしたから、9時以降はラジオに頼るしかありませんでした。この試合、ぼくはラジオにかぶりつきになり、試合が終わった瞬間は、あまりの高揚感に、そこにのびてしまいました。

(中継のアナウンサーったら、山本が打った瞬間「あーっ!・・・・・・落ちた落ちた!」としか言わないから、何が何だかわかりませんでした。)

野球って、こんなにおもしろいんだ。そのことを教えてもらいました。

その後の山本功児さんの、選手として、監督として、野球人としてのご活躍は、スーパースター目線ではなく我々ファンと同じ目線で野球やってくれているようなさわやかさがあって、とても印象に残っています。熱くて正直で不遇でも不屈で、笑顔の素敵な男の中の男でした。

ご冥福をお祈りします。