<産直開始>
1995年12月19日、僕は初めてイチゴの出荷をした。たった10パック。それでも僕にとって、それは初めてイチゴで収入を得た記念すべき瞬間だった。
僕も最初は、邑久町のイチゴ生産組合からJAを通して卸売市場へ出荷する方法を選んだ。他に方法を知らなかったので、当たり前のようにそうした。
初出荷から2~3日おきにイチゴをJAの集荷場に持って行く。そこで他の組合員のイチゴと合わせて梱包し、JAの車で市場へと運ばれていく。その先はどうなったのかわからない。しばらくして、いくらの値がついたのかをJAに聞きに行く。
選果は煩雑で難しかった。サイズが3L~2Sまで6段階あり、それぞれに赤秀、青秀、Aという形や着色の基準がある。すごく手間のかかる作業だ。実際のところ、消費者はこんな選果を求めているんだろうかと理解に苦しみながら、根を詰めて選果した。
なんだかつまらなかった。生産者はひたすらに、流通の規格どおりに出荷作業に励むのみ。自分のイチゴが、どこでどのように喜ばれているのかは知るよしもない。価格は自分で決められない。どんなにこだわって作っても、流通の価値基準で輪切りにされて、価格が決められていく。食味より色や形が大事?それは違うと思った。
イチゴを出荷しても、出会うのは生産組合のおじいさんおばあさんたちと、JAの担当者のみ。それはそれで刺激的な出会いではあったけれども、それ以上には広がっていかなかった。営業マン出身の僕には物足りなさが募る。イチゴというすばらしいアイテムを持っているのだから、もっとワクワクする無限に広がるネットワークが作れるはずだと思った。
ある日市場からクレームがついた。「過熟の果実かあったので、是正するように」ということだった。生産組合の中で、僕が疑われた。(もちろん間違いなく僕のせいだ。)組合長らが僕のハウスを訪れ、こんな指導をされた。「もっと青摘みをするように。収穫した後はハウス内が真っ青になるぐらい、ちぎりなさい。」残念に思った。完熟した方がうまいに決まっている。それをわざわざまずい状態で収穫し、店頭に並べて赤くして消費者に届けるなんて。このシステムに自分がついていけるのか、不安になった。
JAに出荷する一方で試してみていることが、僕にはあった。真美が地元の「母子クラブ」に入っており、また僕の妹が保育園の保育士をしている関係で、子供を持つ若いお母さんたちとの接点が持てていた。その女性たちにイチゴを売ってほしいと頼まれることが多かったので、少しずつ声をかけて直接販売をさせてもらった。もちろんJAや組合には内緒で。その女性たちの反応は、刺激的で心躍るものだった。(2006.2.26)
<生産組合脱退>
うちのハウスからJAの集荷場に向かう途中に、中国電力の社宅マンションがある。(注釈:現在はハローズの駐車場。)僕はここを、メリーベリー発祥の地だと密かに思っている。
ここに住む女性たちと、真美が「母子クラブ」を通して友達になっていて、よくイチゴを売りに来てほしいと頼まれていた。そこで、ある日思い切って出荷の途中に立ち寄り、声をかけてみた。想像以上の人が出てきてくれて、想像以上に買ってくれた。
その後も何度か立ち寄った。他にも、頼まれるままにいろんな人に買ってもらった。うれしい評価をたくさんいただいた。激励もしてもらった。
沸々と冒険心がわいてきた。産直をやれば、おいしくて新鮮なものを消費者に届けることができ、夥しい人々と交流が持てる。断然挑戦してみるべきテーマだと思った。
当時作っていた「とよのか」は、冬期休眠しやすいので、3月に少なくなりやすい。もちろん日本一下手くそなイチゴ生産者の僕のハウスには、イチゴが無くなった。次に出てくるのは4月。この時期を利用して、産直の動きをしてみることにした。
当時は今のように道の駅などの直売所は無い。産直やるなら、消費者とダイレクトにつながるしかなかった。僕には幸運なことが二つあったのだ。一つは、真美が元グラフィックデザイナーであったということ。チラシ作りなどお手の物。たちまち素敵な産直チラシを作ってくれた。二人でお店の名前を考えた。「MERRY BERRY」。陽気なイチゴと読めるこの名前を、二人ですごく気に入った。
もう一つの幸運は、妹が保育園の保育士をしていたこと。彼女の持つ若いお母さんたちとの面識はたいしたものだったので、メリーベリーを知ってもらうのに大いに力になってくれた。
保育園でチラシを配らせてもらった。近くの団地にも配った。チラシには1パックから配達しますとうたった。市場出荷のあの煩雑な選果基準を省略してしまえば、配達する時間は十分に取れると踏んだから。
たちまち注文は入ってきた。イチゴはほとんど無いので、「4月から」と書いておいたのに、3月にどんどん注文が舞い込んだ。何とかやりくりして、お客さんの元へ届けた。
そんなわけでJAに出荷する分はほとんど無くなり、しばらく集荷場に顔を見せないでいたら、ある日イチゴ生産組合長から電話があった。もちろん僕がチラシを配っているという情報はJAの方にも入っているはずで、怒られた。「みんな直売はやりたいけどやれないのだ。一人勝手なことをするんだったら、もう生産組合をやめることだ!」
僕はもう覚悟していたので、「はい、やめます。」と答えた。翌日、お菓子持って組合長のところへ挨拶に行き、生産組合に区切りをつけた。
生産組合を辞めた生産者は、多くの場合「個選」の形で市場に出荷する。でも僕は、そのルートを確保しなかった。せっかくだから、逃げ道を作らずに、産直でしか生きていけないという背水の陣を敷いた。
4月にたくさん出てきた僕のイチゴは、おかげなことに、ほとんど売れ残ることなくお客さんに届けられた。もちろんいくつも失敗はあったけど、おおむね好評のうちに1年目の収穫を終えた。(2006.3.30)
<壁>
半分は成り行きで始めてしまった産直だけど、始めてみるとそう簡単なものではなかった。とれたイチゴを全部自分で販売しきるというのは並大抵ではなかった。何が難しいか。それは、とれたイチゴの数と注文の数が全く合わない。このことに尽きる。
イチゴを全部販売するために、いろんなことをした。基本はチラシ配り。何百枚も自分で配って回った。新聞の折り込みチラシを入れたこともある。配達用の車も用意した。(実は親父の車を勝手に拝借。)真美のデザインした「MERRY BERRY」のロゴが入ったオリジナル箱も用意した。僕のイチゴ気に入ってくれた人から、口コミで少しずつ販路は広がりつつあった。
しかし僕のハウス規模で週3回収穫するとして、多い日には400パック取れたのだ。こんなには注文は入らない。そんなときは、いろんな人に電話したり、車にスピーカー積んで町内走り回ったり、保育園に持ち込んで販売させてもらったり。追い返されるの覚悟で一戸一戸扉を叩いたことも何度もある。なんとかして全部販売するように動き回った。とにかく何とかしなくちゃという気持ちで、一生懸命だった。(そもそも多い日は、それだけパック詰めにも時間がかかるわけで、時間との戦いでもあったのです。)
逆に少ない日は、50パックにも満たない。せっかくの注文も断らないといけない。でも断って嫌われてはいけないので、言葉を尽くして説明し、次にまた注文がもらえるように心を配った。(でも怒らせてしまったこともあるよなあ。)電話恐怖症に陥ることもしばしばだった。
そんなこんなで、イチゴの出荷期間中は一日として気の休まる日は無かったんだけど、幸運にも僕らのそんな事情を理解してくれる優しいお客さんにたくさん出会えて、綱渡りのような産直の日々が続いていった。信じられないことに、売れ残ることはほとんど無かった。
でも「イチゴを産直で買える」という珍しさも次第に慣れられたのかもしれない。いちいち電話で注文するのが煩わしくなってきたのかもしれない。「とよのか」の味に少し飽きられたのかもしれない。
4~5年経つと、目に見えて注文が減ってきた。予約でいっぱいになることが少なくなってきた。ちょっと無理して買ってもらうことが増えた。どうしよう。すごく悩んだ。
この売れない時期が一番辛かったと思う。自分は求められていないと感じることは、やる気をなくさせる。産直なんてもうやめようかと何度も思った。
それでもずーっとファンでいてくれるお客さんが支えてくれたし、産直を始めたいきさつ上の意地もあって、細々と続けていく。どこまでがんばれるかな。先細りは必至に思えた。
ここでどうしても起死回生の起爆剤が必要だった。それを探し求めた。(2006.5.26)
<章姫>
「章姫」。もちろんその名は就農の時から知っていた。大きくて細長く、真っ赤に色づき、酸味が少なくて甘い新品種。静岡で爆発的に広がっているイチゴ。果皮が軟らかいために輸送性が劣り、全国区になれないでいるイチゴ。産直のためにあるようなイチゴ。
イチゴ産直を始めてから数年。お客さんの感触が明らかに悪くなり、販売も頭打ちになってきた。何とか売れ残ることは無いようにできたけど、このままではメリーベリーはもう何年ももたないと思われた。第一、お客さんの反応がよくないとつまらなかった。もう一度お客さんに注目してもらえる起爆剤がどうしても必要だった。
「新品種」。それ以外には考えられなかった。お客さんが食べたこともないようなイチゴ。自分にしか作れないような甘くておいしいイチゴを見つけたい。来る日も来る日も、そのことばかり考え続けた。
当時、全国二大品種の一角{女峰」が崩れ、新しい品種があちこちで名乗りを上げていた。「とちおとめ」「さちのか」「アスカルビー」「佐賀2号」「章姫」・・・。いろんなイチゴを買い集めて食べてみた。自分で作ってもみた。しかし、自分の感性をとらえるようなイチゴは全く無かった。「章姫」も味が淡泊で、とてもおいしいとは思えなかった。果形が乱れるぐらいに肥料をきかせた「とよのか」はやっぱりおいしいと思う。「とよのか」の後継を任せられる品種は無いのかもしれないとあきらめかけた。
2003年2月のある日、ジャットの営業マンに頼んで、神戸の「二郎イチゴ」という産地に連れて行ってもらった。ジャットの肥料を使って「章姫」を作っているNさんの圃場を見せてもらうためだ。そこで食べさせてもらった「章姫」は、あれっ?と思うぐらいに甘みが乗っていた。これならいけるかもしれない。Nさんの肥培管理は、同じジャットの肥料を使っていても、僕の管理とはまったく違っていた。なんだ、そうだったのかと納得した。少し光が見えた。
よし、やってみようと思ったら、即、しかも全部やらないと気が済まない性格には困ったもんで、すぐに章姫の栽培許諾料5万円を支払って、全ハウス分の苗が取れるだけの親株を購入。翌年、「とよのか」から完全に切り替えた。それぐらい経営が行き詰まっていたということでもある。新しいこの「章姫」というアイテムで勝負をかけるつもりだった。これでダメだったら、産直からは手を引かざるを得ない。そう決めた。
章姫1年目。品種を変えるついでに栽培方法も変えた。通常株間20?pの2条植えで栽培するところを、株間10cmの1条植えにした。体の負担を少しでも減らそうという発想からだったが、これが大失敗。章姫がこんなに、根が隣の株と競合するのを嫌うとは思わなかった。株は弱く、果実は先が白っぽくなり、少し変な味になった。大得意様のお客さんから、「なんでおいしかったとよのかをやめて、こんな洋梨みたいな味のイチゴにしたの!」と怒られた。収量も半分になり、悲惨な結果となった。
2年目。株間22cmの2条植えにし、少し余裕を持たせた。順調に育ち、想像以上に赤くてでかい実をつけた。甘い。自分でも納得できる甘さに仕上がった。これなら絶対大丈夫だと確信した。
お客さんの反応も良かった。離れつつあったお客さんも帰ってきてくれたし、新しい出会いもたくさん持てた。去年怒られたお客さんも、「2年目は上手になるんだね。」と認めてくれた。これでもうしばらくは産直で食っていける。安堵した一瞬だった。(2006.12.27)(完)