<退社編>

 

 1993年、冷夏が日本列島を襲い、大変なことが起きた。日本じゅうで米が少ししか取れなかったのだ。流通が大混乱した。農産物の輸入をめぐって国論が二分し、日本農業の危機が声高に叫ばれた。
 
 そんなご時世の中、名古屋でサラリーマンをしていた僕の中に、ふとある着想が生まれた。「農業やってみようか。」
 
 ひとのアイデアにはいろんなパターンがある。すぐ消えていくもの、心の奥底でくすぶるもの、心を満たしてしまうもの。この着想は僕の心をいっぱいにし、しかも消えていかなかった。「ハハハ、まさかね。冗談だよね。」といういつもの日和見主義を抑えた。
 
 当時僕は、三和エクステリア(株)という三和シヤッター工業(株)100%出資の将来性のある(はずの)会社で営業マンをしていた。成績はまあまあ。入社7年目を迎え、自分もやはりサラリーマン社会で所長や部長を目指し、出世していくことが自己実現なのかなあと漠然と考えるようになっていた。しかし一方で、遅くまで働き家族と疎遠になり、己の人生への愚痴が多くなっている先輩の姿にも、漠然と疑問を持っていた。31歳、どう腹を決めるのか、人生の岐路だと思える年齢にさしかかっていた。
 
 そんな僕に、「農業をやってみようか」というアイデアは、これまでとまったく違う価値観を示してみせた。食の生産を担うというきわめて公共性の高い分野で、家族とのつながりを大切にしながら、出世の勝ち負けという価値観から自由になれて自分の力を試していくことができる。もし農業経営で食っていくことができるなら、それに勝るものは無い。自分の岡山の実家は、1.7haの農地を持つ農家だ。可能性はある。自分の決断次第で・・・。
 
 いろんな紆余曲折を経て、就農を決めた僕は、1994年、直属の上司である小松名古屋営業所長に話しに行った。「実家で農業をしたいので、1年後に退社させてください。」すでに他の人から聞いていたという小松所長、部下思いの気っ風のいい九州男児らしくこう続けた。「言い出したらきかないお前のことだから、止めても無駄だろ。やればいい。本社には黙っておくからしゃべるなよ。」僕は最後にこんないい上司の下で働けて幸せだったと、涙ながらに感謝した。恩返しに1年はしっかり働こう、と思ったのもつかの間、次第に仕事手を抜くようになり、営業に出たふりをして1日じゅう図書館で農業の勉強をしているということも多くなっていた。恩知らずな男です。すみません。
 
 そして1年後、退社直前、いろんな準備のために、たまりにたまった有給休暇を1ヶ月分申し出て休んだ。後で聞いたら、小松所長、本社には内緒にしてくれていたらしい。僕がスムーズに就農できたのは、この人の力添えがあったことを無視することはできない。お世話になりました。

 

 僕が退社して数年後、三和エクステリア(株)は親会社の意向により解散となり、メンバーたちは散り散りになった。自分のバックボーンが無くなったようで寂しかった。小松所長を始め、またみんなで会いたいな。(2005.6.20

 

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<妻編>

 

 「農業をやりたい。」そんなこと相談しても反対されるだけなのであまり人には話さなかったけど、どうしても意見を聞かなければならない人がいた。もし本当に就農するにしても、絶対に承諾を得ておかなければならない人がいた。
 
 妻の真美である。まだ結婚生活も端緒についたばかり。鈴鹿でのコーポ暮らしが、少しだけ安定しかけた頃だった。彼女のお腹の中には、初めての子どもの命が息づいていた。
 
 真美は三重県で生まれ育ち、東京でデザインの勉強をし仕事をしてきた、元グラフィックデザイナーだ。およそ農業などとは縁のない暮らしをしてきた。仕事を辞めてまで選んだ僕との結婚生活に、彼女なりの夢を描いていることもよくわかっていた。そんな真美に「実家に帰って、農業をやりたい」という気持ちを打ち明けなければならない。
 
 まずいことに、僕は結婚に際して「実家に田んぼは結構あるけど、農業やる気は全く無いから安心していいよ。」と約束していた。まだたぶん、その舌の根は乾いていない。
 
 その時が来た。僕はまず、「今日本農業は、存亡の危機にあるのだ。」という話から始めた。誰かがこれからの農業を担わなければならない。自分にはその条件が整っている。転勤のあるサラリーマンより、家族で一緒にいられる農業の方が幸せではないだろうか。特に生まれてくる子供のために、自然環境の良い農村で暮らした方がいいのではないだろうか。だから・・・農業をやらせてもらえないだろうか・・・・。よく憶えていないが、そんなことをしゃべり、真美の答えを待った。
 
 もし真美が「絶対嫌!やめてほしい。」と言ったら、たぶん僕はやめていたと思う。妻の反対を押し切ってまでして、家族を幸せにできる自信と展望は僕には無かった。
 
 しばらく考えた後、真美は言った。「仕方ないよ。職業の選択は自由だから。嫌だけど、反対はできないよ。」そして続けた。「でも、私はやらないよ。」
 
 嫌でたまらないのに、無理矢理自分の気持ちを納得させて賛成してくれた真美の優しさに感謝した。しかしそれ以上に、重い十字架を背負ってしまったという気持ちが強くした。
 
 「もちろんやらなくていいよ。これからの農業は、人を雇って企業的にやっていくものだから。」と撲。しかしこれは、結果的に2つめの大嘘になった。
 
 ともあれ、真美のこの言質を得て、僕は就農に向けて具体的に動いていけるようになる。心に重ーいものを引きずりながら。

 

 写真は、当時妊娠7ヶ月の真美といっしょに岡山に遊びに来て、トラクターに試乗している様子です。この後どんな激しい展開が待っているか、何も知らず笑っているのん気な二人です。(2005.6.21

 

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<指導者編>

 

 僕のような素人がいきなり就農しようという場合、どんな指導者と出会うか、誰の下で農業を学ぶかということは、その後の農業人生を大きく左右する大切な要素だ。一般的には地元農協の指導者だったり、ベテラン農家だったりすることが多い。しかし僕は、ちょっと違う出会いをした。
 
 「1年後に岡山に帰って農業をする」ということだけ決めた僕だが、他には何も決まっていなかった。そもそも農業を始めるということはどういうことなのかさえわからない。どこかに行って、農業者にしてくださいと頼むべきなのだろうか。何を準備したらいいのだろうか。一体全体僕は何を生産したらいいんだろうか。八方ふさがりで、焦りばかりが募っていた。
 
 そんなある日、本を読んでいてふとある言葉が目に止まった。「高度農業技術研究会(JAHT)」。この本の著者は、JAHTを営農指導機関として高く評価していた。僕は飛びついた。矢も盾もたまらず、書いてあったTEL番号に電話した。
 
 電話に出た女性が取り次いでくれたのは、岩男部長という技術指導部の人だった。少し横柄な感じのする岩男部長に僕は聞いた。「農業をしたいんですが、僕はどうしたらいいんでしょうか。」今思えば、大変ぶしつけで中身の無い、失礼な質問だったと思う。しかし岩男部長は、僕の実家の住所を聞いた後こう言った。「あなたの町は岡山市の隣だから、果菜類を作って岡山市に産直をかけなさい。心配しなくても、いいものを作らせてあげるから。特にうちは、イチゴの指導には自信を持っています。」
 
 僕はこの言葉に救われた。前に進みなさいと背中を押された気がした。
 
 僕は動き始める。まず岡山に戻り、地元農協の人と相談して、作目をイチゴに決める。消費者に人気のある作目なのに、生産者が高齢化しており、後継者も育っていないところに魅力を感じた。イチゴに決めたことを岩男部長に報告すると、大阪に来なさいということなので、JAHTの大阪本社に伺った。僕はこの時、JAHTが肥料メーカーであることを初めて知った。初めて会う岩男先生に、、1時間半ミッチリとイチゴの作り方を講義してもらったが、ほとんど意味がわからない。
 
 その後、全国を技術指導して回っているという岩男先生にお願いして、イチゴの生産現場にいくつか連れて行ってもらった。香川県観音寺市、徳島、愛知県一宮市、幡豆町・・・。わからないながらも、僕の中に少しずつイメージができていく。
 
 そして秋。イチゴの親株は秋に定植するので、岡山の実家で親父に譲ってもらった田んぼを耕起うね立てし、親株を400本定植した。岡山と三重を何度も往復して準備を進め、翌春岡山に引っ越して就農した。
 
 就農後も、岩男先生は僕のハウスに何度も足を運んで、イチゴ作りを教えてくれた。我が家に1泊してくれたこともある。その時は、農業生活に不満いっぱいの真美に、農家暮らしの心得を教え諭してくれた。しかし、この時ばかりは、さすがの岩男先生もあまりの強敵に退散してしまったようだけど。
 
 岩男先生に言われたとおり、僕は就農1年目から、作ったイチゴを全量産直に転換する。JAHTの有機肥料を使い、JAHTの施肥設計で作ったイチゴは、地元の消費者のみなさんに受け入れられていく。

 

 就農の時、岩男先生に言われていることがもうひとつある。
 
 「水耕栽培などの甘い話が来るだろうけど、その話には乗るな。お金はなるべく使うな。ハウスは中古で十分。土耕栽培で苦労をして、本当のイチゴ栽培を学びなさい。それで10年頑張ったら、お前も一人前だ。10年経った時、また次の展開を考えたらいいんじゃないか。」
 
その10年が経った。(2005.7.3

 

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<始動編>

 

 1995年春、僕は家族を連れて故郷・岡山へ移住した。アウトドアショップで買いそろえたズボンとシューズに身を固め、意気揚々と農業者としての第1歩を踏み出した。
 
 空は快晴。僕の田んぼにはイチゴの親株が400本植わっているだけ。1日の仕事なんて、すぐ終わってしまう。適度な労働と汗が心地よい。家族との時間もたっぷり取れる。「これが農業の醍醐味よ。」と、嫁ぎ先から遊びに来た妹に自慢したりしていた。
 
 しかし、そんな喜びにあふれた日々も長くは続かなかった。まず、天候の洗礼を受ける。ある日「水抜きだ!」という親父の声にたたき起こされた。あわてて田んぼに行ってみると、昨夜来の雨のせいで一面海だ。大切な親株が水没している。慣れないクワを持ち、泥に足を取られながら水路を作る。田んぼの隅に水中ポンプを据えて、水をかい出す。何時間もかかって、やっと水は減ってきた。ヘトヘトだった。こんなことってあるのかと驚いた。
 
 親株からランナーが出て、子苗が増えてきたので、勉強したとおり「鉢受け」という作業を始めてみた。ポットに針金で子苗を押さえていく作業だ。まず、真砂土とモミガラくんたんを混ぜる。スコップで混ぜたら1度で音を上げた。中古のミキサー買ってきて混ぜる。今度は混ぜた土を1万個以上のポットに詰める。辛い。今度はポットを親株の傍らに運んで並べる。重い。厳しすぎる。目の前に一気に暗雲が立ちこめた。
 
 まだ少ししかポットの用意はできていないけど、とりあえず鉢受けをやってみた。愕然とした。1日じゅう懸命にやったのに、ほんの少ししか進まなかった。2日目も同じだった。3日目も。梅雨に入り、雨が降ってくる。辛くて体が動かなくなる。ボーッとしている時間が多くなる。本当にこの作業は終わるのか。もし鉢受けが終わっても、今度はランナーを切り離して、ポットを育苗床まで運んで並べるのだ。できるわけが無い。気がつけば、圃場は全株うどんこ病まみれ。防除しても止まらない。何でこんなに難しいんだ。心底絶望的な気持ちに襲われた。
 
 僕はこの時、農業とサラリーマンとの決定的な違いを実感した。誰のせいにもできないのだ。会社にいたら、仕事がうまくいかないとき、開発や物流や営業方針のせいにして責任転嫁することができた。でも今はそれができない。何かに責任転嫁しようと、対象を探す自分がいる。でも、誰のせいにもできない。全部自分の責任でしかない。
 
 追い打ちをかけるように、もうひとつ大問題が起こっていた。真美のことである。真美は、いきなり農家で義父母との同居生活を始めるという環境の激変に、ストレスをためていた。いつも暗い顔をしていた。毎日泣いて、やりきれない思いを僕にぶつけていた。突然鳥羽の実家へ帰ってしまったこともある。狭間で僕は悩んだ。爆発しそうだった。気晴らしに妻子と外食に出る。でも帰ってきて家のシルエットが見えたとき、牢獄に戻ったような気がした。また時々妻子の体調のことで、朝から岡山市の大きい病院へ出かけることがあった。その病院にいるときが、もっとも気の紛れる時間だった。
 
 「俺、何やっているんだろう。こんなにまでして、農業やらなきゃいけないんだろうか。」農業なんかやろうと思った自分を悔やんだ。もうやめてしまいたいと思った。その頃たまたま、地域で農地の基盤整備の話が持ち上がり、もし僕がビニールハウスを建てても、近い将来工事のために撤去しなければならないという事情が生まれた。渡りに船だ。これを理由に、撤退の決意を固めかけた。

 

 しかし、結果的に僕は逃げなかった。何故?それはみんなが助けてくれたから。

 

 苗と格闘する僕を見かねて、母が勤めの合間を縫って手伝ってくれた。機械が好きな父は、僕が難問にぶつかる度に、ドラえもんのポケットのようにいろんな機械を出してきて窮地を救ってくれた。三重県からは義父母が駆けつけて手伝ってくれた。妹のダンナも来てくれた。地域の人は「ここまでやったんじゃから、頑張られえ。」と励ましてくれた。必死で己の境遇になじもうと闘っていた真美も・・・畑仕事に出てくれた。
 
 なんとか踏ん張れた。僕はむしろ、みんなに尻を押されるような形で育苗の大仕事を乗り切る。その後、ハウス建設。うね立て。定植。ビニールかけ。マルチング。・・・。夥しい作業ステージを、ひとつひとつ僕はクリアしていく。
 
 絶対に一人ではできなかった。とにかく始めれば何とかなると思っていた自分の甘さ、無計画さ加減が情けなくて仕方ない。そんな僕でも助けてくれて、ここまで連れてきてくれたみんなには、どんなに感謝してもしきれないと思う。
 
 僕の初めてのイチゴは、決していい出来ではなかったけれど、ハウスの中で花を咲かせ、成長していった。そして、忘れもしない11月の終わり、1果だけ真っ赤な実をつけた。大事にちぎって、仏壇に供えた後いただいた。おいしかった。涙が出そうになった。(2005.7.9

 

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(完)