8/11の吉備歴文会は、神職の伏見正さんの講演でした。岡山県立図書館が会場でした。
伏見さんが神職を務められているのが「元伊勢 内宮」です。バイパスの旭川大橋付近から、旭川の西岸に沿う道を北上すると、岡山製紙本社工場の傍らに「内宮」と書いた石塔と鳥居がありますので、そこから参道に入ります。
伏見さんの講演で勉強させてもらったこと。
歴史書によると、崇神天皇6年まで皇居にあった天照大神の御神体が、その後89年の間諸国を転々と移動し、垂仁天皇26年に現在の伊勢神宮に鎮座した。その間、崇神54年~58年の4年間、吉備国の某所に鎮座したという。
その御神体があったとされるのが、この神社です。(他にも比定地はいくつかあります。)
ぼくは、妻の在所が三重県鳥羽市なので、伊勢神宮はよく足を運んだのですが、岡山にも内宮と外宮があったなんて、びっくり仰天ですよ。
伏見さんのお話の中には、ぼくが興味関心を持っている事柄に関して、とっても重要な内容が含まれていました。
崇神天皇は、記紀では在位期間が68年で、生存年数が120年とか168年とか長生きだったとされています。でもそれはあり得ないので、研究者の間では在位は西暦240年代~250年代の十数年ではなかったかと推定されている天皇です。
だから、崇神54年とか58年というのはちょっと首をかしげるべき年なのですが、その数字を無視して、仮に崇神の治世期間に御神体が吉備に鎮座した期間があったとしたら。
当然、崇神の時代には、吉備と大和はきわめて良好な関係を維持していたということになりますよね。国家存立の正当性の証を、一時的にせよ預けてしまったわけですから。
しかし、魏志倭人伝の記述では、240年代は邪馬台国は狗奴国との戦争に明け暮れ、卑弥呼が死んで内戦が起こり、248年に壱与が即位してやっと国が治まるという、激動の時代をくぐっているのです。
邪馬台国を吉備、狗奴国を大和に比定して、日本古代史を読み解こうという歴史観に立ってみているわけなんですが、それにしては、特殊器台の話といい、今回の御神体の鎮座の件といい、大事な時期にこの2国は平和的で仲がよすぎはしないか。吉備と大和に戦乱の形跡があるように思えないんですよ。
勉強すればするほど、わけがわからなくなる日本古代史。どうなることやら。








家業が神社ということで、毎年七五三には学校をお休みされていましたが、まさかご本人では?!