「邪馬臺国(邪馬台国)」とよく言いますが、魏志倭人伝に「邪馬臺国」という文字は一度も出てきません。すべて「邪馬壹国(邪馬一国)」です。
では何故「邪馬台国」なのかというと、魏志がが編纂された晋の時代より更に時代が下った宋の時代に編纂された「後漢書」という史書に、「邪馬台国」と書かれてあるからなのです。そして、どういう成り行きか、「邪馬一国」は魏志の編者・陳寿の書き間違いだということにされて、「邪馬台国」が正しいとされるようになりました。一説には、邪馬台国=近畿説派が「邪馬臺」を「ヤマト」と読みたいから、「邪馬臺」を採用したとも言われています。
中国の王朝と史書の編纂時期を時系列で追うと、↓の表のようになります。
塚田敬章さんは、論文の中でこの「一」が「台」に書き換えられた事情について述べられています。それを僕流に解釈し直すと次のようになります。
すなわち、東晋から宋の時代にかけて、「倭の五王」が朝貢するようになった。この五王が大和朝廷の天皇であることは疑いのないところなので、朝貢の使者は自らの国を「ヤマト」あるいは「ヤマタイ」と表現していただろう。それを聞き知っていた後漢書の編者は、「なあんだ、邪馬一国じゃなくて邪馬台国じゃないか。魏志を書いた陳寿君、さては間違えたな。」と思ってしまい、後漢書では邪馬台国になった。
さて、ここからが僕の推論。「邪馬台国吉備説」を追いかけながら。
陳寿は絶対に書き間違えていないと思います。仮にも王朝の正式な史書の編纂ですから、そう簡単に間違えるわけがない。それに魏志では「臺」の文字を他の箇所で正しく使っているのです。絶対に陳寿は「壹」と書くべくして書いた。
つまり魏に朝貢したのは「邪馬壹(ヤマイ)国」であり、後に東晋と宋に朝貢したのは「邪馬臺(ヤマト)国=大和朝廷」だったのではないでしょうか。この二国は違う国であり、卑弥呼の朝貢から倭の五王が朝貢するまでの空白期間に国が代わっている、政権交代が起こっていると考えるべきではないでしょうか。
魏に朝貢した卑弥呼の女王国は、大和朝廷に滅ぼされ、大和朝廷が倭の正式な王朝となった。そう考えることも、決して根拠のない暴論ではないと思います。








