大和朝廷第十代天皇崇神は、3世紀後半四人の将軍を四道に遣わして全国平定の動きに出た。北陸道には大彦命、東海道には武渟川別命、丹波道には、丹波道主命、そして西道(山陽道)には吉備津彦命。この四将軍である。
かねてから戦争状態にあった西国の邪馬台国には、大和朝廷軍のエース中のエース吉備津彦を総大将として派遣し、家臣として有力豪族の犬飼健、楽々森彦、留玉臣の三氏を従軍させた。それぞれ、犬将軍、猿将軍、雉将軍と呼ばれた。
吉備津彦は西に軍を進め、備中一宮、現在の吉備津神社に本陣を構える。対する邪馬台国軍は鬼ノ城に本陣を構え、全兵力を布陣して対峙する。奇しくも1300年後、豊臣秀吉が全国平定のため黒田官兵衛を指揮官として毛利を攻めた、その地である。
決戦の火ぶたは切って落とされた。両者相譲らぬ激戦。鉄製の武具に勝る邪馬台国軍は緒戦で敵を殲滅するが、軍内部の意志不統一が玉にきず。次第に潰走する軍が増えて戦線が縮小し、陣営は本陣鬼ノ城での籠城戦に移行する。
吉備津彦は、この難攻不落の鬼ノ城に手を焼いた。いたずらに屍の塁を築くのみで、いっこうに落とせない。戦線は膠着する。しかし、吉備津彦の兵糧攻めに籠城軍は疲弊し、戦意を喪失していく。そして、和議の使者が送られた。
邪馬台国軍の和議の条件は、讃岐に逃れている女王壱与の命であった。こうして邪馬台国軍は吉備津彦の軍門に下る。古代の関ヶ原と言うべき東西の決戦は、ここでも東軍の勝利に終わる。
女王壱与は、吉備津彦の手によって丁重に扱われ、大和に移送されて幽閉状態になる。
しかしこれでも西国は安泰というわけにはいかなかった。邪馬台国残党のゲリラ戦による抵抗が熾烈を極め、時として大和の駐留軍を破った。これに天災、飢饉が加わって、西国は混乱する。
頭を痛めた崇神は、幽閉中の壱与の宮に足を運び教えを請う。壱与は同じく捕虜となっていた邪馬台国将軍を西国に遣わし、帰順を説いて回らせた。これにより、ついに西国の平定は成り、他の三道も加えて大和朝廷の全国統一は大きく前進した。
以上、本当の話かもしれない創作話でした。







